アートとは「いたずら」の代名詞である。作曲家の武満徹は「小さな空」で、♪いたずらがすぎて、叱られて泣いた。子どもの頃を思い出したあ♪と歌った。この曲を聴きながら、おとなになってからも叱られてばかりだと気がついた。まだ、まだこりずにカリンバで遊ぶのであった。わっ、ははは。
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2013年5月12日日曜日
2013年3月28日木曜日
キャパに撮られた少年のお話
久し振りの更新である。
カリンバはあいかわらずつくっているのですが、これとはほとんど関係のないお話でお茶をにごして、おひさしぶりのごあいさつとしたいのであります。とはいえ、ネタのすくないオレにとっては、かなりとっておきの話題なのであります。
横浜美術館で「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー ふたりの写真家」展を見た。
報道写真家の巨星、キャパが日本に来た1954年の春、日本の風景を撮っている。その中に「東京駅」という作品がある。ホームで電車を待つという少年の写真である。
実はその少年は、オレである。わっ、ははは。
そのときオレは、プラットホームからこわごわと身を線路側によせて、電車がくる方向をのぞいていた。運動会で「よーい、ドン!」とスタートラインから走り出す時の格好をして、先に進むのではなく、反対に腰を引いてホームから転落しないように、線路のかなたを見ていた。
後ろには父親がオレを見守つてくれていた。進入してくる電車見たさに、もう少しホームの端までいっても大丈夫かと加減しながら、にじり出たりしていた。
そんな様子がおもしろかったのだろうか。男の人が声をかけてきた。
父親に写真を撮らせてくれといっているようだ。
オレを…?
男の人はそばにいる外国人の通訳のようで、話を聞いた父親はとてもうれしそうな顔になり、「快諾」といった表情で、いまよりさらに後ろのほうに下がった。
外国人が何かを言うと、男の人が通訳をしてオレに指示を出した。
「もっと、前に進んで」
こわがりなオレはいやだった。父親に「落ちちゃうよ」と懇願するようにいい、父親からは「だいじょうぶだから」などという会話が何度かあった気がする。
もう少し先に、と言われてわずかずつ進み、最終的に当時のオレとしてはかなり恐怖の許容量を超えたホーム端の場所に立たされた。
その場にいっても、外国人はなかなかシャッターを押さなかった。
長いな…と思った。
その時を鮮明に思い出すのは、今回、写真展で見た少年の右足である。
はいていたの靴の先をあげている。まだかなあ、はやくしないかなあ…のしぐさ。それに、この時にはいていた靴は革靴で、底がすこしはがれていたのだ。
オレの家の前が注文の靴屋さんで、そこで買ったものだろう。当時、革靴といえばすべて手作りの高級品であった。今思えば、そんなに豊かであるはずもない父母が買ったとしたら、近所のよしみか、あるいはもらいものか、一人息子への贅沢なプレゼントである。ただし、耐久性は低かった。
そのこわれかけた靴の箇所が、撮影の間中、気になっていた。
もうひとつ思い出した。半ズボンの左すそからわずかに出ているのは、毛糸のパンツである。春とはいえ、まだ肌寒いからと母が出がけにはかせてくれたものであった。
半ズボンは洋服店を営んでいた父親が、あまり布で仕立てたものだろう。一回り大きいのは、成長しても長く着れるようにという配慮からで、戦後九年目とはいえども、まだまだ世間全般に物がない時代であり、この頃の子供たちはみんながそういう格好がふつうだった。
小さな商店主の父親は世間並みに貧しかったが、それでもこのときは母のこころづくしもあって、とびっきりのおしゃれをさせてくれた外出であり、オレは立派な「おぼっちゃん」であった。
四歳のオレは電車に乗ることだけで十分に楽しかった。山手線にあった自分の街の駅から三、四十分乗って東京駅に来た。東京駅周辺は当時では最もきれいな街なみであった。
父が中古カメラを買ったときに、きれいなところにいこうということで、おじを含めて三人で皇居近くの歩道で記念撮影をしたことがあった。そのときオレは自分の住む街の雰囲気とあまりに違っていたので「ここは、入っていいの?」と父親に聞いたほどだった。父親は笑って「日本人ならいいんだよ」といった。
帰ってから父親は周囲の人びとに、オレが有名なカメラマンに撮影されたことを話して回り、それを聞いた近所のおとなたちから「Sちゃん、良かったじゃない」と絶賛されるのだが、オレにとっては何かがよかったようなのだけど、何がよかったのか一向にわからずで、懸賞金のない宝くじにでも当たったような気分であり、うれしいけれど実感がないといったところだった。
すこしたってから父親が、あの時のカメラマンの外国人が亡くなったと新聞を広げながら母にいい、わからんものだと人の運命のはかなさにため息をついていたのを記憶している。
父親の使っていた中古カメラはミノルタのミノックス6×6二眼レフで、東京駅で撮られたと同じ頃に父がオレを撮った写真が十数枚、いまも壊れたアルバムに貼られ残っている。
今回の写真展で買った図録の写真と、残っている当時のオレの写真を比較して家族に「これはオレだ」といっても、似るようで似ていないともいわれ、上のような記憶があるにもかかわらず、そういわれると自信もなくなる。もうはるか半世紀以上も前にもなろうとしている。
でも、これはたしかにオレである。
先日、NHKの番組でキャパを有名にした一枚の写真をいろいろな角度からコンピュータ分析していたように、オレのもやってほしいところだが、それが、オレであってもなくても別段、どうということもなく、写真のテーマからしてもほとんど意味をもたない。そんなところが平和な雰囲気でいい。
キャパの「東京駅」写真は、オレが二十歳代の頃に、展覧会か、写真集かですでに見ていた。 そのときも、ああ、これはオレだな、とは思っていたが、別段、それがどうしたという思いだけが残った。 今回も同じである。
ただ、キャパのカメラに写った人々や風景、それらはまぎれもなくキャパの時間であるのだが、同時に、それに参加した一員として意識すると、写っている時代に強い連帯をおぼえる。これこそが報道写真の味わいなのだろうと思った。
ロバート・キャパさん、オレを撮ってくれてありがとう。
報道写真家の巨星、キャパが日本に来た1954年の春、日本の風景を撮っている。その中に「東京駅」という作品がある。ホームで電車を待つという少年の写真である。
実はその少年は、オレである。わっ、ははは。
そのときオレは、プラットホームからこわごわと身を線路側によせて、電車がくる方向をのぞいていた。運動会で「よーい、ドン!」とスタートラインから走り出す時の格好をして、先に進むのではなく、反対に腰を引いてホームから転落しないように、線路のかなたを見ていた。
後ろには父親がオレを見守つてくれていた。進入してくる電車見たさに、もう少しホームの端までいっても大丈夫かと加減しながら、にじり出たりしていた。
そんな様子がおもしろかったのだろうか。男の人が声をかけてきた。
父親に写真を撮らせてくれといっているようだ。
オレを…?
男の人はそばにいる外国人の通訳のようで、話を聞いた父親はとてもうれしそうな顔になり、「快諾」といった表情で、いまよりさらに後ろのほうに下がった。
外国人が何かを言うと、男の人が通訳をしてオレに指示を出した。
「もっと、前に進んで」
こわがりなオレはいやだった。父親に「落ちちゃうよ」と懇願するようにいい、父親からは「だいじょうぶだから」などという会話が何度かあった気がする。
もう少し先に、と言われてわずかずつ進み、最終的に当時のオレとしてはかなり恐怖の許容量を超えたホーム端の場所に立たされた。
その場にいっても、外国人はなかなかシャッターを押さなかった。
長いな…と思った。
その時を鮮明に思い出すのは、今回、写真展で見た少年の右足である。
はいていたの靴の先をあげている。まだかなあ、はやくしないかなあ…のしぐさ。それに、この時にはいていた靴は革靴で、底がすこしはがれていたのだ。
オレの家の前が注文の靴屋さんで、そこで買ったものだろう。当時、革靴といえばすべて手作りの高級品であった。今思えば、そんなに豊かであるはずもない父母が買ったとしたら、近所のよしみか、あるいはもらいものか、一人息子への贅沢なプレゼントである。ただし、耐久性は低かった。
そのこわれかけた靴の箇所が、撮影の間中、気になっていた。
もうひとつ思い出した。半ズボンの左すそからわずかに出ているのは、毛糸のパンツである。春とはいえ、まだ肌寒いからと母が出がけにはかせてくれたものであった。
半ズボンは洋服店を営んでいた父親が、あまり布で仕立てたものだろう。一回り大きいのは、成長しても長く着れるようにという配慮からで、戦後九年目とはいえども、まだまだ世間全般に物がない時代であり、この頃の子供たちはみんながそういう格好がふつうだった。
小さな商店主の父親は世間並みに貧しかったが、それでもこのときは母のこころづくしもあって、とびっきりのおしゃれをさせてくれた外出であり、オレは立派な「おぼっちゃん」であった。
四歳のオレは電車に乗ることだけで十分に楽しかった。山手線にあった自分の街の駅から三、四十分乗って東京駅に来た。東京駅周辺は当時では最もきれいな街なみであった。
父が中古カメラを買ったときに、きれいなところにいこうということで、おじを含めて三人で皇居近くの歩道で記念撮影をしたことがあった。そのときオレは自分の住む街の雰囲気とあまりに違っていたので「ここは、入っていいの?」と父親に聞いたほどだった。父親は笑って「日本人ならいいんだよ」といった。
帰ってから父親は周囲の人びとに、オレが有名なカメラマンに撮影されたことを話して回り、それを聞いた近所のおとなたちから「Sちゃん、良かったじゃない」と絶賛されるのだが、オレにとっては何かがよかったようなのだけど、何がよかったのか一向にわからずで、懸賞金のない宝くじにでも当たったような気分であり、うれしいけれど実感がないといったところだった。
すこしたってから父親が、あの時のカメラマンの外国人が亡くなったと新聞を広げながら母にいい、わからんものだと人の運命のはかなさにため息をついていたのを記憶している。
父親の使っていた中古カメラはミノルタのミノックス6×6二眼レフで、東京駅で撮られたと同じ頃に父がオレを撮った写真が十数枚、いまも壊れたアルバムに貼られ残っている。
今回の写真展で買った図録の写真と、残っている当時のオレの写真を比較して家族に「これはオレだ」といっても、似るようで似ていないともいわれ、上のような記憶があるにもかかわらず、そういわれると自信もなくなる。もうはるか半世紀以上も前にもなろうとしている。
でも、これはたしかにオレである。
先日、NHKの番組でキャパを有名にした一枚の写真をいろいろな角度からコンピュータ分析していたように、オレのもやってほしいところだが、それが、オレであってもなくても別段、どうということもなく、写真のテーマからしてもほとんど意味をもたない。そんなところが平和な雰囲気でいい。
キャパの「東京駅」写真は、オレが二十歳代の頃に、展覧会か、写真集かですでに見ていた。 そのときも、ああ、これはオレだな、とは思っていたが、別段、それがどうしたという思いだけが残った。 今回も同じである。
ただ、キャパのカメラに写った人々や風景、それらはまぎれもなくキャパの時間であるのだが、同時に、それに参加した一員として意識すると、写っている時代に強い連帯をおぼえる。これこそが報道写真の味わいなのだろうと思った。
ロバート・キャパさん、オレを撮ってくれてありがとう。
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